障害は障害であって、障がいでも障碍でもない話


「障がい者」表記は障害者のイメージを向上させる?:ポジティブなイメージ変わるが、ネガティブなイメージ変わらず — 京都大学


このページを読んで思ったのは、現象・事象は同じなのだから、どんなに文字の表現を変えようとも、その本質は変わらないよね〜、ということだった。上記ページには、

障がい者」表記について、障害者に対するポジティブなイメージの変容は起こりうるが、ネガティブなイメージや交流への意欲に変化は見られなかったことを明らかにしています。そして、「「障がい者」表記の直接的な効果はイメージのレベルに留まり、障害者との関係性の改善には表記変更のみでは効果は薄い」と分析しています。

とある。要は「字面だけ変えても、意味ないんじゃね?」という分析で、しごく当然な結論だ。


害?がい??碍???

見出しが「氷河戦士ガイスラッガー」みたいなことになってるな・・・。


さて、PTA活動に足を突っ込んでまだ日が浅かった頃、資料に「障碍」という文字を見つけて、すごい違和感を覚えた。確かにPCで「しょうがい」と入力して変換しても直ぐに出てくるので、間違っていないのだろうけど、馴染みの無い文字であることに代わりはない。


Wikipedia障害の項目を見てみると、「「障害者」というときの「障害」」の項目には

1950年に施行された「身体障害者福祉法」において、「障害者」および「障害」の語が用いられたことから、それまで用いられていた「不具者」「癈疾者」といった語に代わって、「障害者」という新しい単語と、「障害」という語の新たな用法が一般に定着した。また、その後、「知的障害(者)」、「精神障害(者)」の分野においてもこれらの語が使われるようになった。
近年でこれらの語に関して、悪いイメージのある「害」の字を避け「障碍者」「障碍」、あるいは「障がい者」「障がい」と書くべきとする動きが、当事者およびその周辺から広まってきている。特に、東京都多摩市が2000年に交ぜ書きの「障がい者」「障がい」を採用して以降は地方自治体を中心に交ぜ書きが広まりつつあるが、本質的な差別の解消や待遇の改善に何らつながるものではないとして、当事者サイドの一部を含め、批判する向きもある。また、佐賀県知事古川康らによる交ぜ書きそのものが好ましくないとする批判もある。
2010年6月7日に文化審議会国語分科会より文部科学大臣に答申された改定常用漢字表では、2009年3月と11月の2回にわたり実施されたパブリックコメントで「碍」の追加を要望する意見が多数にのぼったものの審議の結果「碍」の追加を拒否する方針が決定された。但し、2009年12月に設置された内閣府障がい者制度改革推進本部で公文書における「障害」の表記見直しについて議論されている為、同本部に設置されている障がい者制度改革推進会議より文化審議会に対して特に「碍」の追加を求められた場合は、11月に予定されている内閣告示の前に改めて議論するものとされている。

とある。


「害」という文字は「そこなう 邪魔をする」という意味がある。一方、言い換えの対象であるの「碍」には「さまた-げる ささ-える」という意味がある。ただ、いずれにしても「身体上の機能が十分に働かないこと。「胃腸―」「言語―」」の意味である「障害」を説明しようとしている訳だから、私からには「どうでもいい」議論だ。


まして、「障がい」なんていう交ぜ書きは愚の骨頂だ。「障害」といいう用語は、「不具者」等の差別用語に代わる用語として誕生したものだ。その用語を構成している「害」という文字が漢字の意味的によろしくないから、ひらがなで表記しようというのは、思考の逃避でしかない。昨今流行のひらがな混じりの自治体名みたいだ。あれだって、合併協議会の時、モメないように、という理由でしょ。気の利いた自治体は住民から新名称を公募したけど、投票数トップの名称ではなく、無難なひらがな混じりの(場合によってはカタカナ混じりの)名称を選んでいるところも多い。漢字表記が論議を呼ぶなら、ひらがなでいいじゃん、という感じだ。


安易に交ぜ書きを使うのは、「思考停止」でしかない。明治以前の先人達が、知恵を絞って様々な単語を考案していった気概は、今の私たちにはまるで無い。カタカナにしてそれでお終い。「コンテンツ」だの「コンプレックス」だの「コンプライアンス」だの、年配者でなくてもうんざりだ。もっと分かりやすい「日本語表記」があっていいはずだが
、それが世に出ることは少ない。センスもどんどん悪くなっている。旧国鉄の「国電」がJRになった時、「E電」ってのが出てきたけど、世間の失笑を買い、スゴスゴと退場していったっけ。


変えるべきは表記じゃなくイメージでしょ

ずいぶん脱線してしまった。別に国語論だのを語ろうと思ったわけじゃない。本題に戻る。上記記事の最後には

ひらがな表記は、それ自体で障害者に対する偏見的なイメージや、障害者との交流を改善させる効果を持ちません。障害者を取り巻く環境の改善には、表記の変更のみでは不十分だと考えられます。そして、重要なことは、「障害者」「障がい者」表記の議論の背景にある、障害者に対する偏見や差別の存在を認識し、彼らを「障害者」たらしめている「障害」が改善される社会の実現に向けた取り組みを行うことだと考えます。

とある。本当にその通りで、いくら表記を変えたって、その根本にある差別や偏見の意識を変えることが本来やらねばならないことだろう。つまらない言葉遊びをしているヒマがあったら、どうすれば障害者に対する差別や偏見を減らせるか、知恵を絞るべきだ。


人間、誰しも「障害者」になる可能性がある。今は五体満足でも、ちょっとした不運で「障害」を負う可能性がある。現代の医学の進歩で、その可能性は以前より飛躍的に高まっている(別に医学の進歩を否定しているわけではない。念のため)。それは身体障害だけじゃない。ちょっと打ちどころが悪ければ、高次脳機能障害になる可能性だってある。


五体満足の人は、ちょっと想像してみてほしい。事故に遭って障害が残った自分の姿を。


思い出してほしい。何らかの理由で障害を負ってしまい、これまでの生活ができなくなった知人のことを。


その時「障害」か「障がい」か「障碍」か、なんて、どうでもいいと思わない? 障害者をごく自然に手助けしてあげる社会であれば、表記なんて何だっていいじゃない。